関ヶ原の前哨戦ともいわれる伏見城の戦いは、西軍の主力4万の大軍に対し、留守を預かる鳥居元忠がわずか2300人の兵力で迎え撃った籠城戦です。圧倒的な兵力差から、短時日で決着がつくと思われた戦いでしたが、堅固な城に加え元忠らの決死の抵抗に西軍は思いがけない苦戦を強いられる事となります。最終的には伏見城は落城し元忠は討ち死にしますが、10日以上も持ち堪えた事により、その後の西軍の進軍が大きく遅れる要因となったともいわれています。
元忠は徳川康が今川家の人質だった頃からそばに仕えた忠臣であり、家康は会津征伐に行く前に伏見城を訪れ元忠と酒を酌み交わしたといわれています。
その際に家康が僅かな兵しか城に残せないことを詫びると元忠は「会津は強敵ですから一人でも多くの兵をつれていってください。伏見には自分一人で十分です」と答え、また、別れ際に「留守中に何事もなければまたお目にかかれるでしょう。もし事が起きれば今夜が永きお別れにございます」と言い残します。過去の戦で負傷した足を引きずってその場を去る元忠の後ろ姿を見て家康は涙したといわれます。
大軍を率いて上杉討伐に向かえばその隙をついて三成が挙兵し、家康の拠点で交通の要所でもあった伏見城が攻められる事は十分考えられた事で、それを予期しながら苦渋の決断で城の留守を命じた家康と、死兵となる事を覚悟の上で引き受けた元忠の別れのエピソードとして記述が残っています。(※一説では三成がそこまでの兵力を集められるとは思っていなかった家康の判断ミスを誤魔化す為の後世の創作物ともいわれていますが、いずれにせよ最後まで家康の為に戦って散った元忠の忠義に涙を禁じえません。)
※なぜ落城する事が目に見えている城に元忠ほどの重臣を捨て駒として起用したかについては諸説ありますが、伏見城は亡き太閤秀吉から預かった城である事から、そこを任せるにはそれなりの人物でなくては面目が立たないといった事や、下手な人選では西軍に寝返ったり簡単に城を明け渡してしまう恐れがあり、味方の士気に影響を与えかねないといった事が考えられます。
また、会津に向かった家康が引き返すまで少しでも長く時間稼ぎが必要であった為、それらを考えるとやはり、元忠をおいて他にはいなかったものと思われます。事実、元忠はその期待に応え4万もの大軍の猛攻に10日以上も耐え、三河武士の名に恥じない見事な最後を迎えています。