「田辺城の戦い」は畿内(当時、日本の中心地であった山城、大和、河内、和泉、摂津、5ヵ国の呼称)近国の制圧を目指す西軍、小野木重次、前田茂勝、織田信包ら豊後の諸大名を中心とした1万5000の軍勢と細川家との間で行われた籠城戦です。
この時、細川家の当主である細川忠興は殆どの兵を率いて会津征伐に従軍していた為、国元に残っていたのは父の細川幽斎(藤孝)、弟の細川幸隆、従兄弟の三淵光行らが率いるわずか500人の兵のみでした。
勝敗は火を見るより明らかで、普通に考えれば瞬時にして捻り潰されそうなものですが、実際にはそうはなりませんでした。幽斎らは圧倒的な兵力差を相手に、実に50日余りも持ち堪え、最終的には城を明け渡す事にはなりますが、結果、1万5000の大軍は田辺城に釘付けにされ、関ヶ原の戦い本戦には間に合いませんでした。
なぜこれだけの兵力差がありながら長期戦となったかについてですが、幽斎は歌道、茶道、蹴鞠、能楽など、あらゆる学術に精通した戦国時代随一の文化人であった事から、西軍の中にも幽斉を歌道の師として慕っている諸将が少なくなく、積極的な攻撃は行われなかったといわれています。
一説によれば西軍の谷衛友は密かに細川勢と内応し、弾を込めずに鉄砲を撃って攻撃をする振りをしたという逸話も残っています(谷の空鉄砲)。
また弟子達だけではなく、当代一の歌人であった幽斎の死を憂いた朝廷も講和に向けて働きかけ、最後は天皇の勅命によって田辺城の戦いは終結しています。